「教え好き」な人とそうでない人の差

理系の人々」という絵日記ブログをよく観る。システム・エンジニアを生業にする作者自身を含めた、「理系の人々」の日常風景を描くブログ。

タイトルに「理系」とあるが、視点が社会人だから、いわゆる受験でいうところの文系理系*1よりは、思考様式としてロジカル、物事を事実に即して論理的に考える(平たく言うと理屈っぽい)というぐらいの意味にしておこう。

その記事の中で、興味深い反応があったので紹介する。

  1. 理系の人々(18) 個人的に絵が得意なだけでしょうか
  2. ↑に対するトラックバック

以下、上記2より引用。

「理系の人々」の欠点は、ものごとの把握や理解に重きを置きすぎていることだ。だから相手も同じように理解しておいてもらわないと不安になる。そして、「理解」に関してはある意味「真摯」なので、根気良く分かるまで説明しようとする。

とあるが、これは「理系」の特性ではなく、「ウンチク好きで教え好き」という嗜好を持った人の特性である。

私もウンチク好きだしものごとの把握や理解を重視する方だが、相手もそうであるとは限らないので相手も同じように理解しておいてもらわないと不安になるということはない。

「教え好き」の嗜好の有無は、他人との相互理解度のデフォルトを高い方に倒すか低い方に倒すかの差だと思う。平たく言えば、人間関係を、以下の1のように捉えるか2のように捉えるかの差だ。

  1. 「自分と他人の価値観は、基本的に同じ。だから、大抵は分かり合えるが、ところどころ、分かり合えない部分がある」
  2. 「自分と他人の価値観は、基本的に違う。だから、大抵は分かり合えないが、ところどころ、分かり合える部分がある」

「教え好き」嗜好の人は大抵のことは「教えれば分かる」と考える。つまり1の世界観を持っているわけである。

1の世界観の人は「原則として人は分かり合える。分かり合えないのは努力が足りないからだ」という考えで、それゆえ自他の理解のギャップを埋めることに躍起、つまり「教え好き」になる。また、同じ理由で「聞き好き」でもある。ということは「議論好き」とも言える。

2の世界観の人は、必要以上に他人の理解を求めず、したがって「教え好き」にはならない(他人を理解したいと思う気持ちはあるので「聞き好き」ではあるかもしれないが)。必要に迫られると、懇切丁寧。たまに、冗長になることがある。

2の人から見ると1の人は暑苦しくなれなれしく、時には攻撃的に自分の考えを押し付ける人に見えるし、1の人から見ると2の人はクールで自分のことを語りたがらない秘密主義者で、時には人嫌いの偏屈みたいに見えるだろう。

言い換えれば上記1は楽観論の対人観で、上記2は悲観論の対人観と言えるだろう*2。1が一般的な理系の価値観だと思われているということは、理系の人は学問や仕事に対して純粋でひたむきなので、結構、他人に対してもそうだということなのだろう。

*1:高校生のとき「数学」が得意な人から「文系は理屈っぽい」と言われたことがある(私は文系)。彼自身は「数学」を「なんとなく」で解く人間だった。「数学」は膨大なルール体系と、その上に積み上げられた純粋論理のパズルであり、途中で積み上げたものを崩して挫折すると、一気に分からなくなる。だから普通コツコツ積み上げないといけないのだが、彼はこと「数学」に関してのみユング心理学の言葉でいう「直観」が発達したのか、論理を無意識で踏み越えて「なんとなく」で解けてしまう天才肌の男であった。受験の文系理系と論理的思考度は必ずしも相関しないという一例である。

*2:ただし、ここでは「相互理解すればするほど良い」という価値観で楽観・悲観と呼んだ。実際にはこれは偏った価値観で、「完全に相互理解できないことは良いことだ」とも言える。なぜなら、それは異なる考え方・感じ方がたくさんあるという、世界の豊かさを表しているからだ。