収集と記憶

何かを「集める」ことと「覚える」ことは子どもの習性だ。
それは自我の未熟な子どもにとって外界を自分にとりこんで自分の世界を作る過程である。

大人たちにとってビジネスに直結するからだが、「集める」ものは流行によって移り変わる。近年大流行のポケモンなどのトレーディングカードはその最進化系だと言える。
なぜならトレカは交換するものだからだ。交換は極めて高度な社会的行為だ。交換は公平でなくてはならない。そしてその交換が自分にメリットがあるかどうか、判断するには、自分のデッキの状態を考え合わせなければできず、また、それを実現するためのかけひき、交渉の要素がある。

「集める」ことに比べて、「覚える」ことは自分に閉じた行為だ。
私は「覚える」子どもだった。

小児の頃は母が読んでくれるお気に入りの絵本を完全に覚えてしまい、次第に読み間違えたり飛ばしたりすると文句を言うような子であったらしい*1。ミニカーが好きで、車の名前を覚えては道行く車の車種をすべて言い当てていたそうだし、小学生のときは円周率とか歴史の語呂合わせみたいなメジャーなものから、母方の祖父の葬式で聞いた般若心経まで気に入って丸暗記した*2こともある。

「覚える」子どもは、次第に知ること、理解することへの興味へ傾斜していく。「集める」子どもはもっと即物的、あるいは社会的な方向へといくのだろう。

*1:嫌な子どもだ! すみません、お母さん!

*2:今でも1/3ぐらいは覚えている。「般若心経」は音読するとリズムが美しいと思う。でも曹洞宗の経典(修証義)も好きだった。曹洞宗の坊主の読経は節回しがついていて、とてもメロディアスだ。そこへいくと浄土宗・浄土真宗はなぜか平板でストイックなのだ。