センター試験(国語)で一人称「僕」の女の子が登場

問題文で興奮した受験生は素直に手を挙げろ!!

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/jyuken/center06/etc/kokugo/10.html

文学少女同士、ナイーブなお互いの魂が映し絵のように瓜二つで、だからこそハリネズミのジレンマに陥り、互いに踏み込めない、近寄りがたいような関係だ。

女性として成長する自分を否定するように、一人称「僕」を用いる少女たちの、はかない抵抗と、百合的少女漫画的世界観。思春期という不安定な自我に差し込む、甘美なタナトスの闇とともに蠢くエロスの光。

そこにあるのは紛う事なき「萌え」である。

江戸時代の花魁たちは、セクシーな格好で客をひきながらも、言葉は男っぽい一人称「あちき」とか「わちき」などを使い、ひどく高慢ちきで、蓮っ葉な口調で男を相手にした。しかし、情けを交わした客と2人きりのときはひどく甘え、女性的になる。極端から極端への倒錯。それがテクニックなのである。

彼女たちは、ある種のジェンダーを捻じ曲げる*1振る舞いで、社会的秩序から遊離した、非現実的で、奔放で奇妙な魅力を演出することができた。
現代にも、女性的ないでたちで、不思議な魅力をふりまく男性は、ミュージシャンなどに多数思い浮かぶだろう。

こういう人を、ジェンダー・ベンダーという。

「僕」という女は、ジェンダーイメージを捻じ曲げ、屈折的な魅力、中性的なキュートさ、美しさをアピールする、ジェンダー・ベンダーの一種なのだと考える。
それはある一面で少女らしさを、より浮き彫りにすることになる。

イカにかける塩の辛さが甘さをひきたてるように。

しかし、全然甘くないスイカは塩をかけても絶対に甘くはならない。本質的な部分での甘さが必要である。
それが主人公たちの繊細な文学少女的な側面であり、その発露としての、微妙な距離の少女同士の交わりの描写なのであった。

かくのごとく、今年のセンター試験がいかに受験生を幻惑するものだったかが理解してほしい。
少なくとも私が受験生だったら、上に書いたようなことをつらつら考えてしまい、答案に手がつかないであろう。

*1:ツンデレの原型と考えてもいいかもしれない。ツンとデレのギャップ、これは男性的な部分と女性的な部分のギャップと捉えても私は一向に構わんッッ。