演歌

言語的感情再現技術としての演歌

演歌は「音楽」ではありません。「うた」を聴かせるものです。
演歌の「うた」は語りです。語りとは言語による感情の吐露です。

つまり、演歌は、

  • 言語的な
  • 共感しやすい*1
  • 定型の

表現技術なのです。
演歌の音楽的要素は極めて矮小化された西洋音楽のサブセットで*2、いわば「音楽」の要素は演歌にとっておまけ。メロディもコードも一本調子でよいのです。
逆に、欧米のポップスに慣れ親しんでいない国民にとっては、音楽性は感情再現にとって邪魔とすら言えます。
大衆が好むのは、自分たちの日常に合った下世話な享楽。ポップス以前の大衆にとってそれが演歌というものなのでしょう。

それがゆえに、大衆の音楽レベルの変化によって、演歌が崩壊の一途をたどる*3のは仕方ないことですね。

歌姫

作曲家に、その演歌の粋を集めたと言わしめたのが、前述の美空ひばり「みだれ髪」。
美空ひばりが永遠の歌姫たるゆえんは、演歌を好まない世代に対して、演歌を歌っても感動させてしまうところ。
演歌に限らず、音楽は小手先の技術の塊です。それを超越してしまう表現力。それがゆえに、広く愛されていたのでしょう。
まさしく不世出の天才だったのです*4

特殊技術者としての演歌歌手

演歌界は、いつまでたっても演歌界から美空ひばりを超える人を輩出できません。これは必然だといえます。
演歌歌手とは、演歌という完成された、しかし今や小さなマーケットに最適化されてしまった、一種の特殊技術者だからです。
戦後60年、研鑚を続けてきた演歌界のヴォーカリストの技術レベルは総じて高いのですが、その技術はもはや新しい購買層を惹きつけるものではないのです。

美空ひばりの死とともに、演歌はすでにその役目を終えたといえます。

*1:「失恋の痛み」「別れた恋人を思い出す」等というのが代表的。

*2:演歌が日本の心だなんてとんでもない話です。「荒城の月」の作者、滝廉太郎は、フランス音楽を学んできたのですよね。日本固有の音楽があるとすれば、雅楽や民謡でしかありません。

*3:依然としてポップスの中でも感情表現が下世話で理解しやすいものがマーケットの中心です。モーニング娘。大塚愛オレンジレンジがその筆頭でしょう。

*4:惜しむらくは、最後の大ヒット作「川の流れのように」が谷村新司「昴」まんまだということです。しょせんは、おニャン子クラブと同じ、秋元康の企画モノなのですよ!