兄貴雑感――空耳のシニフィアンが君臨する

 究極的には、誰もが「wwwwwwwwwww」という弾幕を張る、あの光景に到るのだろう。同じ反応をすることが求められる世界。たとえば『笑っていいとも!』のテレフォンショッキング冒頭、タモリの言葉に観客席が「そうですね!」と返すおなじみのやり取りにも似ている――もっと端的に、野球やサッカーの応援でもかまわない。観客は自発的に、異口同音に、同じ言葉や歌や身振りで選手を応援する。そういうものと思えばいいのかもしれない。

 しかし、それらは祝祭空間の約束事のようなものだ。日常の中でニュースなりインタビューなりに触れた我々は、日常の語彙で感想を言ったり言わなかったりするはずなのだ。「これはひどい」というタグが何十もつけられるような事態に接してさえ、我々はなお多様な言葉で語りうる。

 ところが、ビリー氏来日の報に接して「どういうことなの……」とコメントしたとき、あるいはインタビューを読んで「さすが兄貴、歪みねぇ」と感嘆したとき、我々はいわばタグで語ってしまったのだ。「どういうことなの」「歪みねぇ」ではなく、本当は何と言いたかったのか? と自らに問いかけたとき、言葉が出てこないことに気づいて愕然とするかもしれない。

 しかも、「どういうことなの」も「歪みねぇ」も元々空耳だ。どこにも存在せず、勝手に発生した言葉なのである。シニフィエ(記号内容)を欠いたシニフィアン(記号表現)ともいうべきかたわな言葉があらゆる内容を意味していき、ついにはビリー氏の振る舞いまでをも支配してしまった。使い古された表現を持ち出すならば、虚構が現実を侵食したのである。


ネタふりに対して期待されたネタをうまく織り交ぜてリアクションする。ある常識を備えた者同士のコードでありマナーである。

ニコ動という際限なき「祝祭空間」における常識。兄貴来日のネタふりに際し、ニコ動ユーザーというペルソナに求められるリアクションがどんなものであるかは自明である。

祝祭は楽しむべき。ならば、発するのは、妖精を寿ぐ呪文であるべきなのだ。