「ぼくらの」セカイ系の重力に抗う大人の戦い
「原作が嫌い」と言い放つ監督は、本作を通じて大人の生き様を見せつけることができるのか。
ぼくらの 1 (1) (IKKI COMICS)
鬼頭 莫宏
とある夏休み――自然学校にやってきた15人の少年少女。そこで、小学生の宇白可奈を除く14人の中学1年生は、ココペリと名乗る謎の人物と契約を結んだ。その契約とは、地球を守るため巨大ロボット・ジアースに乗り込むこと。ただし、このロボットを操縦するものは、その代償として命を落とす。しかし戦わなければ、地球は滅亡する――!!
少年少女の日常と世界の存亡が直結する点が「セカイ系」と言われる所以であるが、本作のシステムはそれに輪をかけて悲劇的で容赦のないものになっている。
ポイントは以下の通り(本作独特の概念で重要なものはカギ括弧でくくる)。
- 「契約」により、「ジアース」(全長500mの巨大ロボット)を操り、襲来する敵(同じく巨大ロボット)と戦う義務が発生する
- 「契約」を結んだ者の中から戦闘ごとに「ジアース」の操縦者が1人指名される
- 「ジアース」は命を動力にし、操縦者は、戦闘後、勝敗にかかわらず必ず死亡する
- 「ジアース」が敗北するか、48時間以内に決着がつかない場合、地球が滅亡する
- 敵ロボットの操縦者も、別の宇宙で自分達の地球を守るために戦っている人間である
上記1の補足
上記4, 5の補足
- この戦いは、分岐して増えすぎた宇宙を剪定するために開催されている
- (作中では明示されないが)「ジアース」などのロボットを調達し、世界を間引こうとする「神」のような存在の意志が背後にある
この鬱設定を思いついただけでも原作者・鬼頭莫宏は相当なドSであるが、原作コミックでは(主人公の一人が教師に孕まされ輪姦される等)日常生活においてすら、これでもかと少年少女を追い詰め責め苛む。新ジャンル「セカイ系鬼畜SM」とでも呼ぼうか。
そんなホームラン級のド鬱作品をアニメ化するGONZOの森田監督は、自分のブログで原作を「嫌い」と表明し、原作ファンの大ブーイングに見舞われた。
この件に関しては監督も悪い。こういう「痛い」作品に共感している若者が、なりふり構わず批判の矢を向けてくるのは想像がつく。そもそもクリエイターが作品以外で語りすぎてはいけない。
しかし彼の語る原作者とのやりとりは非常に美しいものに思える。
私が、原作で嫌いなところのひとつは、子供たちの死に行く運命を作者が肯定してしまっているかのように感じられる点です。だから、私が鬼頭さんに頼んだ一言がすべてを言い表しています。
「子供たちを・・・・助けていいですか?(・・・はネタバレ防止のため略)」
これに対する、鬼頭さんの返答は
「魔法を使わないならいいですよ」
鬱屈した少年の感性で「命なんて使い捨てだし、運命なんて理不尽だし、人間なんて奇麗事を言っても自分のために他人を殺す」と絶望を声高に叫ぶのが原作だとしたら、「それでもこの社会は生きるに足る」と大人たちが彼らを救おうとするのがアニメ版なのである。そのために社会を積極的に介入させ、少年少女たちの契約を解くカギを模索する。
陰鬱なる「セカイ系」の重力を覆す、監督のもくろみは成功するのか。その成否は作品を見て判断するしかないだろう。