自己分析嫌い
例えば
のような自己分析、性格タイプ分類テストが私は大好きだ。
一方、そういうものが嫌いな人がいて、彼らは診断結果に対し、おおよそ、こういう不服を述べる。
「自分の中には全部のタイプに当てはまる(あるいは自分はどのタイプにも当てはまらない)から、こんな分析は意味が無い」
そういう人の言い分を突っ込んで聞くと、こうだ。
「例えば、自分より寡黙な人を前にしたとき、自分は『多弁なタイプ』となるだろう。逆も然りである」
つまり、彼らは周囲の他者や自分を取り巻く環境といった「文脈」と切り離された自分に目を向ける価値を認めない*1。確かに、実生活では「文脈」の中で他者と自分の位置を把握し、うまく自他をコントロールすることが、すなわち「生きる」ことにおける最重要課題である。それ以上の自己分析など、必要かどうかすら考えもしない。
だから、その最重要の「文脈」を無視して
「アナタはこれこれこういうタイプの人間デス!」
と言われると、たいてい彼らは考えもしなかったことに違和感を覚える。
――そんな、だだっぴろい平面にポンと置かれた孤独な点……「これがあなたの座標です」なんて、意味があるものか。
――このX軸もY軸も、誰がどこからどう引いたものやら信用なるものか。
――自分の目で見た「他人」と言う点を置いて、補助線を引いてこそ、座標の意味があるのではないか!
それはそれで正しい選択だと言える。そういう人には、「自己分析」という知的ゲームに参加するのも、結構面白いよ……とだけ言っておこう。