答えは問い掛けるものの中にあり

「問い」に対する「正解」というのは「問う人が正解だと思うこと」である。

人と話をしていて思い出したネタがある。

蛍の墓原作者の野坂昭如と言えば、有名な逸話が。
野坂の娘の国語の授業で、父の作品が扱われた。
その時問題に「この時の著者の心境を答えよ」
というものがあったので、娘は家に帰ってから父に訪ねた。
「その時どんな気持ちだったの?」
「締め切りに追われて必死だった」
翌日のテストで答えにそう書いた娘は×をもらった。

「国語」の模範解答は、本当に著者の思いと一致するとは限らない。本当に一致しているかではなく、もっともらしいかどうかが重要なのである。
そのもっともらしさは、採点者が一般常識・文化・道徳・思想といった暗黙知の膨大な積み重ねによって形成した、教育的な主観によって構成される。

大げさにいえば「国語」とは採点者が回答者に「いかなる人間であれと願っているか」を察知して答えるという科目なのである。だから、対人関係では「気が利く」女の子の方が「国語」は得意だ。

「国語」が得意な女の子は大抵「数学」が苦手だが、これは「数学」というのが抽象的だからだ。数は現実界に存在しない。「2個のりんご」は存在しても「2という数」は存在しない。あくまで数学的概念である。バーチャル・リアリティだと言える。

数学以外の世界で、「本当の正解」の存在はあるともないとも言えず、「そんなものはない」と言ってしまえば「そんなものはない」という「本当の正解」が成立してしまう。

社会における「正解」の1つは「みんなが正解だと思うこと」。民主主義の考え方はそういう前提である。市場主義経済でも「みんなが景気がいいと思って株を買うと、本当に株価が上がる」みたいなことが起きる。ピラミッド型の組織では「上の人が正解だと思うこと」が「正解」だ。

「本当の正解」を求める人は問うだろう。じゃあみんなが間違った選択をして、そのせいで取り返しのつかないことになったとしてもそれは「正解」だったと言えるか?
私は思う。多分そのときは「正解」だった。誰もが「正解」だと思って疑わなければ「正解」なのだ。みんな自分の身はかわいいので、みんなの「正解」はあまり大変なことにはならないだろうと思っているわけだけど。

それでも「正解」が欲しくて不安な人は、いっそSF作家マインドで開き直って生きていくといいと思う。
「大気汚染が起きようが温暖化が起きようが核戦争が起きて世界が滅亡しようがどうでもいいじゃん。どうせ2億年もすれば放射能もとっくに消えて今の人類なくなって別の知的生命体が文明を創ってるし」
それもそうだ!!!!!