宇多田ヒカル「Passion」

聴いてみました。
アンビエントなベースに絡むエレキギターが一聴してちぐはぐな印象を与えるが、楽曲が進むにつれ淡々と刻む機械的な16ビート、逆再生のボーカル、セルフコーラスによるサウンドコラージュ、歌詞と譜割の対応が希薄なメロディetc…があいまって「嗚呼これはプログレだ」と気づく。

随分前から宇多田は(デビュー当初の)R&Bシンガーの枠を抜け、近年ますますサウンドに本人のアイデアを色濃く反映させている。その証拠が、「SAKURAドロップス」のアウトロにおける場違いなディストーションギターや、「COLORS」のオーケストラヒットが全拍入るブリッジの数小節などの、所々習作っぽいアレンジ。本作では、ミニマル・エレクトロニカ的なリズムでフィジカルな躍動感を減殺し、上モノのアレンジワークにてimaginativeな世界観を点描のように表現、これまでの勉強の成果を存分に発揮していると言える。

しかし、そんな観念的な構築美に似つかわしくない、「ずっと前に好きだった人に子供が生まれた」だの「年賀状は写真付き」だの異様に俗っぽい歌詞が、なぜだか、ラストの展開で飛び込んでくるのだが、それは一般リスナーにとって難解すぎた楽曲を中和する彼女なりのバランス感覚なのか、あるいは「私はふつうのひとなんですよ!」という魂の叫びなのか。最近ラジオで「23、24歳くらいで音楽休みたい」とも漏らしているようだ。

はやく にんげんに なりたい!

陰惨なイントロのコードワークが印象的な前作の「Be My Last」にも通じる心の翳りを感じる。

天才少女として世に出た当初、ダウンタウンとタメ口で絡むなどの立ち居振舞いが「意外と普通」と称されていたが、彼女はつとめて普通であろうとしているのではないだろうか?
一億総中流日本社会の「普通」への呪縛は極めて強い。「普通」の人にウケてこその商売であり、サービス精神旺盛な彼女にはそうせざるにはいられないのだろうが。

さっき、XBoxとMTVのイベントに紀里谷タンと一緒に行ってきた。

わはは冗談!紀里谷タンなんて呼ばねーっすよ!実は普段「かず」って呼んでるんだけどなんか書くとつまんないんだよー。別に面白おかしくなくてもいいことなんだがそういうとこで工夫したくなっちゃうのだ、、、

本当、こういうところが彼女の本質なんだろう。

宇多田は結婚してから「子供まだ?」と聞かれることに違和感を覚えると日記に記している。日本人としての「普通」に、彼女はまだ、馴染み切れない。

自分が結婚するまで知らなかったんだけどさ、結婚したら子供作るっていうのが常識なの?だってよーくよく聞かれるもん、知り合いにも、全然知らない人にも、ファンメールでも。赤ちゃんはまだあ?って。この際いうけど私まだ子供欲しくないよ!仕事のスケジュールや会社の契約考えても妊娠は困るし、まだまだ先でいいじゃないっすか。今年21になったんすよ!まわりには40才で第一子を産んでる人もいるぞ。

でもアメリカ人とかヨーロッパの知り合いには聞かれたことないんだよこれが!外国人がびっくりするくらい日本の文化ってエッチなことに関してはオープン(悪く言うと下世話)だけど、赤ちゃんはまだ?いつ?って他人に聞くのって、ちょっとプライバシーの侵害じゃないかって思っちゃう私は日本人としておかしいんかな?なんかそれって、「避妊してる?」とかさ、「たくさんエッチしてる?」とかさ、すごく具体的に他人の性生活のことうかがってない?だって夫婦それぞれ、将来の計画とか違うでしょ?みんなそんなつもりじゃないんだろうけどさ、アメリカではちょっと気まずい質問じゃないかな。国によって違うもんっすよね!非常に面白いことではあるんだけど。

それより、私が気になるのは、なんか妙なプレッシャーを感じる、ってこと。女性として。気にしなくていいのに、なんか早く子供作らなきゃいけないみたいなプレッシャーを感じるの。これは普通、親戚とか姑とかから感じることなんだろうか。