大塚英志「MADARA」について

批評家、評論家としての大塚はさておき、創作家としての彼は好きだ。
創作物よりその創作スタンスに魅力を感じる。
彼の名を世に知らしめた「魍魎戦記MADARA」について少し話をしよう。

魍魎戦記MADARA」は1989年連載開始したゲームソフトの宣伝用コミック。メディアミックス*1戦略のはしりとも言える作品だ。

「MADARA」物語の特殊構造

メディアミックス作品はその特性上、複数のストーリーをパラレルに進める必要がある。それを可能にするべく「MADARA」は「転生」を物語のシステムに組み込んだ。

「MADARA」の物語は冒頭と結末だけ厳密に決まっていた。第一章で主人公と宿敵はともに消滅するが、登場人物たちは彼らの後を追って「転生」し、最終章で現代日本を舞台に、決戦を迎える。
それ以外は、さほど他の挿話との整合性をとる必要なく、フレキシブルに独立した挿話を組み込むことができる(一度死んで「転生」すればチャラだから)。
ソフトウェアのメタファを借りれば、これは「物語の疎結合」である。挿話間は依存関係を持たず、登場人物とちょっとした「お約束」のみで、かろうじて結合関係を保持しているのだ*2

インフラとコンテンツ

こうした自由度の高い作品構成をベースに、「MADARA」は「108のストーリーによる壮大な叙事詩(サーガ)である」という、「言うのはタダ」的大風呂敷を広げ、最終章「転生編」は不定期にコミック化しながら、先に決戦後のエピローグ「天使篇」をノベルの形で発表するといった変則プレイを見せた。
そしてストーリーの中心は、主人公不在のサブストーリー、ギルガメッシュ・サーガへと移る。

ギルガメッシュ・サーガは、美少年同士が愛ゆえに傷つけあう物語(禁忌の術を使ったため「最愛の相手」に7回殺されないと解けない呪いにかかる登場人物。彼も、その「最愛の相手」も男)。
公式「海賊本」(意味不明だ)と称した同人誌のリリースなど、21世紀現在、辞書にも登録され、広く知られるようになった「萌え」概念(しかも腐女子向の「萌え」要素である「やおい」)を商業的に取り入れたのである。

先に述べた「物語の疎結合」構造がインフラであるとすれば、こちらはコンテンツ面での新しい試みであった。

大塚の作家性

「MADARA」は、「天使篇」途中で未完の大作のまま中断*3
つまるところ大塚は「火の鳥」の手塚治虫、「ファイブスター物語」の永野護のように1つの大作をライフワークにするタイプではない。彼は手塚のような天性のストーリーテラーでも、永野のような職人でもない。

彼の作家性は、メディア戦略においてはクリエーターよりプロモーター的、文筆においては物語性より思想性・評論性・批評性の色が濃い。

したがって彼の創作活動は、風呂敷を広げておくだけ広げておき、いざ作品としての物語創作に煮詰まると、見切りをつけ、あれこれ言いながら途中で投げ出してしまうのだ。
もっとも、その態度がインテリ臭くていいのだが。

*1:ある作品の関連作品を、ゲーム、コミック、小説、CD、ラジオなど異なるメディアで発表する戦略。角川書店などが展開した。作品間の相乗効果を期待するとともに、ディープなファンを二重三重に搾取する狙いもある。

*2:手塚治虫が「火の鳥」で、冒頭(古代)と結末(未来)からそれぞれ逆方向に物語を進め、中間地点である現代で一つに結合するという構成をとった(未完)が、それに似ている。蛇足であるが、物語開始時点で主人公マダラは全身ギミック(機械仕掛け)で、敵の妖魔を倒すごとに体が戻っていくという、手塚治虫どろろ」の完全パクリをやっている。多分に手塚作品を意識しているに相違ない。

*3:ただし、「転生編」は2003年出版の『僕は天使の羽を踏まない』というノベルで完結しているそうだ。